K-111htm
[ ホーム ] [ 上へ ] [ a73.htm ] [ a175a.htm ] [ u12.htm ] [ K-111htm ] [ subaru1000htm ]

 

乗り継いだ車(その4)  スバル360 K−111

  ※スバル360誕生物語
     第二次世界大戦時、陸軍一式戦闘機「隼」海軍零式戦闘機の発動機「栄」等を生産していた中島飛行機(株)が戦後富士自動車工業(株)
     となり、中島時代の航空機技術者(飛行機屋)達の手によって開発されたのがスバル360である。
     1955年(昭和30年)高度経済成長が始まり、通商産業省の国民車構想(4人乗り、時速100Km、価格25万円)が発表され、 各自動車製造会社は国民車の開発を始める。
      昭和31年秋、富士自動車工業の開発責任者である百瀬氏は、「4人乗り、1ccあたり車体重量1Kg、悪路を60Kmで走行でき、どんな坂道でも登れ、価格は35万円」という独自基準を設計思想とし開発にあたる。そして1年半の歳月をかけ、あらゆる技術的難問を克服し
     昭和33年に1号車が完成。 2月24日運輸省による認定走行試験が箱根の峠道で実施され、オーバーヒートで立ち往生している普通乗
     用車を尻目にこれまでの記録を塗り替えみごとパスし、5月発売にこぎつけ「家族を大切にする為に作られた車」が誕生したのである・・・

   ※開発スタッフ
     設計責任者:百瀬 晋六  車体担当:室田 公三  足回り担当:小口 芳門  走行試験:福島 時雄  その他20数名(敬省略)  


 

群馬県太田市にある、スバルビジターセンター(博物館)を訪れた際のスナップ。

   スバル360 1/1(現寸)クレイモデル
 木型[木芯]の上に粘土で形を作り、その上に石膏をかけ固まった上に罫線を引き図面を起こす手法。実際は1/1の前に1/5の検討用クレイモデルを作成している。左の額に収まった人物が百瀬 晋六氏。
 現在はコンピュータグラフィックスを多様した設計から図面を起こし、クレイモデルを作成している。
                                

完成したスバル360 1号車

全長:2990mm全幅:1300mm全高:1380mm
最低地上高:180mm 
車両重量:385Kg 乗車定員4名
最高速度:83Km 制動距離:14m
燃料消費率:26Km/L

エンジン型式:EK31強制空冷2サイクル並列2気筒
内径×行程:61.5mm×60mm(オーバスクェア)
総排気量:356cc 圧縮比:6.5
最高出力:16HP/4500r.p.m 
最大トルク:3Kg−m/3000r.p.m

 

 

変速機形式:前進3段、後進1段 常時噛合選択摺動
変速比:1速 5.003
     2速 2.566
     3速 1.614
最終減速比 3.421(ヘリカルギヤ)


クラッチ形式:乾燥単板ケーブル式
歯車形式(ステアリングギャ):ラック&ピニオン式
 減速比:12.58

各ペダル形式:オルガンタイプ

駆動形式:リヤエンジン・リヤドライブ

 

懸架装置
 前車軸形式:トレーリングアーム式独立懸架
 後車軸形式:スイングアクスル式独立懸架
 トーションバー&コイルスプリング併用
                フリクションダンパー付き
タイヤ:4.50−10−2PR

足ブレーキ:油圧式4輪制動
手ブレーキ:機械式後2輪制動

ボディ形式:プラットフォーム型フレームレス方式
 (0.6mm鋼板を使用した現在のモノコックボディ)

     価格:42.5万円(東京渡し)

私の父が所有していた昭和43年型 K−111

1号車誕生から丁度10年後の車両。この間様々な改良が加えられ、トランスミッションは3段+オーバートップ(OT)付きとなる。写真の車両はボディカラーを白からサーキットシルバー(ルーフはブラック)に焼き付けによる全塗装を敢行。私が初めて自動車の運転を覚えさせてもらった思い出の車です。1速はノンシンクロの為、走行中のシフトダウンにはダブルクラッチを必要とし、ヒール&トゥーと共にそのテクニックをマスターさせてくれた車です。(回転数が合わないとギャ鳴りを起こしましたっけ・・・)

ヘッドランプは今は当たり前になっているハロゲン式ではなく、タングステンのシールドビーム式。

フロントにラッゲージルームが有り、スペアタイヤ、バッテリ、ヒューズボックス、ブレーキのマスタシリンダが見える。タイヤはチューブタイプ、ホイールは一体式ではなくボルト&ナットによる分割式(パンク修理した時にチューブを組み込む際は、チューブの噛み込みに注意を払いましたっけ・・・)

サスペンション及びナックルにはグリスニップルが有り、定期的なグリスガンによるグリスアップを必要としました。

エンジン燃焼室形状変更、排気系を改良。
特装排気式ヒーターに改良し、フロントグラスのデフロスト効果を向上。空冷式の宿命ですが、冬場は本当にヒーターの効きが弱く効果が期待できませんでした。フロントグラスの凍りつきを手で溶かした覚えがあります・・・。

最高出力:25PS 最高速度110Km/hにアップ!

実用燃費:15〜16Km/Lでした。

当時の新車価格:35万円(設計時の目標価格となる)

上の写真はエンジンルーム。
発電機はDCダイナモ、ディストリビュータ、キャブレータ等が見える。
混合燃料方式からスバルマチック分離潤滑方式となり、昭和39年鈴鹿サーキットで行われた第2回日本グランプリでは、T−1クラス(400cc以下)に出場し、1位、2位を独占。

右の写真は10万Kmを走破した際のスナップ。当時としてはオドメータが1回転すると驚かれ、新車に戻ったと言われたものでした・・・。
 左下にマルチュースレバー(ホーン、フラッシャー、ディマースイッチが一体になったもの)が見える。

    最終的にスバル360は12年間モデルチェンジなしで量産され、次期軽自動車のR−2にバトンタッチしたのである。 
   我が家のスバル360は、ある日突然ある人が我が家を訪れ「この車を譲ってくれないか?」との弁。その熱意に打たれ、ついに手放す事となり
   当時販売されていた、レックスコンビKM−1を購入せざるを得なくなったのでありました・・・


乗り継いだ車(その5) スバル レックスコンビ KM−1

昭和55年、このKM−1を父が購入。エンジンは水冷式となり、駆動方式もFF、トランスミッションは4速のフルシンクロメッシュ。誰にでも乗りこなせる軽自動車となっていた。技術の進歩である。
 この年代は第二次オイルショックの影響からかエコノミーランが様々開催され、ダートトライアルと並行し県内で開催された総てのエコラン(燃費を競う競技)に出場した。以下、出場結果を報告します。

   ・昭和55年 YBC主催第1回エコノミーランコンテスト 結果:第3位 28.991Km/L
   ・昭和56年  //  第2回    //         結果:第5位 26.436Km/L
   ・昭和57年  //  第3回    //         結果:第4位 31.032Km/L
   ・昭和59年 山形菱油主催98&TPCエコラン     結果:優 勝 55.813Km/L
 昭和59年出場の際は今までの教訓を生かし、キャブレータのセッティング変更、スパークプラグ電極の加工
及び点火時期の変更、エアベンチレーションのテーピング、タイヤ空気圧は3.8等にし雪辱戦に臨んだ。
 今を思えば、現在のコンピュータ制御の車と違い、自分のセッティングができるアナログ的な車だったからこそ楽しめた時代だった・・・

             U12へHOMEへスバル1000へ競技車へ